私が社会人になってからおおよそ20年ほど経ちますが、実は大半の期間を悩みながら過ごしてきました。もちろん楽しいことも嬉しいこともたくさんありましたし、今は妻も子供もいて、一般的な基準から考えれば幸せな人生を過ごしているのだと思います。しかし、職業人生について言えば、自分自身は悩み続けて、流れ流れて生きてきました。
そういう自分が最終的にたどり着いた場所が「英語」を学ぶということであり、目指すべき目標が「会議通訳者になるという夢」でした。
なぜ私が英語を学ぶのか、その理由をご紹介することで、もし生き方に悩んでいる方が読者にいらっしゃる場合に、何かのヒントになるかもしれないと思い、書き記したいと思います。
「転職をしてから本当の人生が始まる」千田琢哉
私は情報系の大学を卒業して、大手のITベンダーでおよそ13年、アプリケーション開発におけるプロジェクト・リーダーとして働いていました。もともと情報工学という新しい技術に対して憧れのようなものがあり、職業にするなら情報系というのを考えていて、そのまま順当に選んだというのが当時の仕事でした。
当時は残業は当たり前、休日出勤も頻繁にあるという環境で、多少の波はあるものの、おおむね過重労働の状態にありました。さらに、自分の場合、何でも我慢して人に合わせようとする傾向があり、いわゆる今で言うHighly Sensitive Person、「繊細さん」でありまして、そういう人はそのような環境で往々にしてうつになりやすいのでした。
それでも仕事自体はそれなりにおもしろい面もありました。ある時期からプログラム開発を中国のベンダーに発注するようになり、頻繁に中国に出張するようになったのです。それまでは一度だけ旅行でオーストラリアに行ったことがあるものの、ほとんど海外に出たことがなかったので、中国では見るもの聞くもの、何もかもが新鮮でした。
そういうわけで出張は嫌いではありませんでしたが、困ったのは休日の過ごし方でした。言葉がわからないので、一人で食事に行ってもレストランで注文ができないのです。タクシーに乗っても行き先が伝えられない。せっかく海外にいるのに、家に閉じこもって過ごすのはもったいない!というわけで、生活のために中国語の勉強を始めた、というのが外国語を学ぶきっかけでした。
学生の頃は外国語(英語)を勉強しても、それほどおもしろいとは思わなかったのですが、やはりその言葉しか通じない現地で、その土地の言葉を話して、それが通じたときには、今まで経験したことがないような喜びを感じることができました。このときに外国語を学ぶことのおもしろさを実感したのでした。
そんなこんなで、出張のときは楽しく過ごしていたものの、日本に帰ってくると何かとストレスフルな毎日で、仕事に行くのがつらい〜、休日は何もやる気が起きない〜という時期がありました。特に、朝起きられず、常にフレックス出勤で、頭が回らず効率が悪いので残業、というのが常態化した時期がありました。
その頃、人生の救いを求めて自己啓発書を読み漁っていました。その中に千田琢哉さんの著書があり、「新卒の就職先はたまたま入った会社であり、そこからリスクを取って転職をしてからが、本当の職業人生なのだ」という言葉がありました。これを真に受けて転職活動をしたところ、たまたま外資系コンサルティング会社に受かることができたので、思い切って転職することにしました。
「好きなことを仕事にするべし」ナポレオン・ヒル
「外資系コンサルの○○術」など、巷にはそんなタイトルの本があふれており、自分の中にもコンサルタントという職業に憧れがあったのでした。プロマネからコンサルへ。華麗なる転身とでもいうのでしょうか。
しかし実際は、常に逃げ出したい気持ちを持っていました。周りはとても優秀な人ばかりで、ついていくのも精一杯。過重労働はなくなり、同僚はいい人たちばかりでしたが、やはり劣等感はハンパなく、楽しく仕事をしているとは言えない状況でした。
その頃、自己啓発の元祖とも言われているナポレオン・ヒルの著書を読みました。そこには「好きなことを仕事にするべきだ。大好きな仕事には報酬以上に打ち込むことができ、結果として成功することができるからだ」といった記載がありました。ITは好きだが、今の仕事は好きかと問われるとそうではないな。
では何をするべきか、そのときにはすぐには思い浮かびませんでした。
「突拍子もない夢に向かって突き進め」苫米地英人
転職してコンサルタントになってからも、救いを求めて自己啓発書を読み漁る習慣は続いていました。一番多い年で100冊以上は読んでいましたが、その半分を占めていたのが苫米地先生の本でした。
苫米地先生の著書は力強く、読んでいるだけで自分が何者にもなれるような感覚を抱くことができました。実際にはなかなか実現が難しいことが書かれていて、凡人にはそう簡単にはいかないものだなと思うことが多かったですが、自分が一番重要なメッセージだと思ったのが「夢に向かって全力で駆け抜けろ」ということでした。これはナポレオン・ヒルの本にも書かれていたことですが、とはいえ「夢といったってそんな明確なものはないよな」と思っていました。
しかし、苫米地先生の本には、さらに「夢は間違っていてもいい。走っているうちに見える景色が変わって、夢が別のものに変わっていく」というのもあり、仮のものでもいいから何かを決めて、そこに向かって突き進むということをやってみようと思ったのでした。
そのときに頭に浮かんだのが、作曲家になるという夢でした。20代後半から30代前半に渡って、パソコンを使った曲作りにハマり、一時期はAmazonでCDを販売したり、iTunes Storeで曲を配信販売していたのでした。また毎週曲作りに関するポッドキャストを、全部で100回以上配信していました。地上波の深夜番組の出演候補アーティストにノミネートされたり、雑誌の投稿コーナーでも自分の作品を取り上げてもらったりしました。しかし、その後結婚したり、仕事で中国に駐在したり、子どもが生まれたりで、すっかりと遠ざかってしまっていたのでした。
妻がいて、生まれたばかりの子どもがいて、30年以上の住宅ローンがあって、30代も終盤に差し掛かって、今から職業作曲家に転身するなんて、結構とんでもないことだなと思いました。しかし、夢と思えるものはこれしかなく、ここでやらなければ一生後悔すると考え、思い切って妻に相談しました。さすがにすぐに仕事を辞めて夢に向かうというのはリスクが高すぎるので、平日の朝夜と週末のうち1日は作曲活動にあてさせてもらい、作曲家を目指すという生活が始まりました。
また、活動における条件として「一人で活動するのはあまりにもリスクが高すぎるので、師匠を持つべし」ということがあり、プロの作曲家の先生に師事しました。先生は後進の指導に熱心で、たくさんの志望者を指導していて、作った曲を送り、先生がメールで添削を送ってくれるというものでした。実際に多くの方が先生のもとからプロデビューしていました。
しかし、残念ながら「繊細さん」の気質を持ち合わせた自分には、先生の情熱的な指導についていくことができませんでした。先生からのメールにだんだん恐怖を感じるようになり、修正後の課題を提出するのがどんどん憂鬱になり、どんどんおっくうになってしまったのでした。最初の課題が何度やってもクリアできず、何度作り直しても先に進めずで1年間。
人間面白いもので、いわゆる「認知的不協和」というやつで、イソップ童話の「きつねとぶどう」状態になりました。つまり「あのぶどうは酸っぱいに違いない」=「作曲家になっても幸せになれるとは限らないな」となり、あれほど憧れてなりたかった作曲家という職業が、もうどうでも良くなってしまったのでした。
先生の元を離れることにし、その後も自分で作曲活動を続けようとしましたが、すっかりと情熱がなくなってしまい、結局活動自体を辞めてしまいました。
「人生の源はワクワクすることにある」マイク・マクマナス
これで人生の目標を失ってしまいましたが、その当時読んだ本の中に、マイク・マクマナスの著書で「ソース」という本がありました。この本のメッセージは「ワクワクすることをいま全部やりましょう。そこに優先順位を付ける必要はありません。またワクワクすることを仕事にしましょう」というものでした。
ワクワクすることってなんだろう、と振り返って考えたときに、思い浮かんだのが語学でした。中国に出張したり駐在したりしていたときに、外国語を使うことの楽しさを感じていましたが、それを活かして職業にできたらどんなに素晴らしいか、と思ったのでした。
そのとき、そのまま中国語をさらに学ぶことも考えましたが、世界的なシェアを考えるとやはり英語のほうが可能性が広がるなと考えて、英語を学び、それを活かした職業にすることを、次の目標にしたのでした。
「英語力を磨くならセブ島を目指せ」高城剛
ところが、英語といってもまだ漠然としたものでした。ひとまずTOEIC930点を目標として勉強を始めていましたが、その先に何を目指すのかは特に決まっていませんでした。そんな中、高城剛さんの著書にハマって多数読んだ時期がありました。
その著書の一つに「フィリピン・セブ島での語学留学」を勧める本があり、読んでいてとてもワクワクしたのでした。そうはいってもフルタイムで正社員として働いている身では、語学留学というのは夢のまた夢だなと思っていたのです。しかしその直後に、コンサルティング会社に入社してから約4年、ずっと入場し続けていたクライアントのプロジェクトから離脱することが決まったのです。これは絶好のタイミングでした。
離脱が決まったタイミングですぐに1ヶ月の休暇を申し出て、2020年2〜3月にセブ島の語学学校での短期留学に行きました。ここでは月〜金までの平日、朝8:00から夕方18:00までの一日8コマ、そのうちの6コマはマンツーマンレッスンで過ごしました。学校は大半が日本人でしたが、中にはタイ人、ロシア人、中国人など、各国からの留学生も多くいました。だいぶ忘れかけていましたが中国語も話すことができたので、台湾からの留学生と仲良くなり、週末はグループで、観光スポットに行ったり食事に行ったりしました。
それまでは自分の思ったことがうまく喋れないという思いをずっと抱えていましたが、強制的に一日中英語を話す環境におかれて、考えていることが前よりもスムーズに表現することができるようになり、自身の成長を感じることができました。また週末には、イワシの大群が泳いでいる海に潜ったり、15メートルの高さから滝壺に向かってジャンプしたり、日本の生活ではなかなか得られない体験ができました。
元々4週間の予定でしたが、新型コロナの発生でセブも近々ロックダウンするという情報が流れたため、急遽3週間に切り上げて帰国しなければならないというサプライズも経験しました。しかし、このセブでの生活は自分の人生にとってかけがえのない、素晴らしい体験となりました。
↓3週間お世話になった語学学校↓
このときの経験も相まって、英語を使った仕事を考えたときに浮かんだのが、通訳ガイドという職業でした。国家資格で通訳案内士という資格があり、その年の8月に一次試験があったので、そこから猛勉強を始めました。しかし、英語だけでなく、日本地理、歴史、一般常識、通訳業務など、いくつかの試験に合格する必要があり、英語は合格したもののそれ以外が全く及ばず、やはり不合格でした。
「定年を過ぎてから同時通訳者になった」田代真一郎
「そう簡単ではないな。また来年にむけてがんばろう」と思っていたところ、たまたまある書籍に出会いました。それは、50歳を過ぎてから英語を使う仕事を始め、55歳で通訳学校に通い始め、定年後にプロの会議通訳者になり、最終的には同時通訳までこなすようになった元エンジニアの方が書いた本でした。
「単純」といえばそれまでですが、自分が向かうべき道はこれだとこのときに確信しました。自分もずっとITの業界で働いてきて専門知識があり、通訳という別の立場から業界に貢献することができるのではないかと考えました。そしてもっとシンプルに、会議通訳者という職業に強烈な憧れを感じたのでした。
自分もこんな人になりたいと思い、2020年の10月に「ISSインスティテュート」というプロ会議通訳者の養成スクールの門を叩いたのでした。
まとめ
こうして振り返ってみると、
- 夢中になれるものを見つけて
- 成長する自分にワクワクしながら
- 大いなる目標に向かって
- 一歩ずつ着実に取り組んでいく
というのが、幸せに生きるために必要なことなのではないかと思っています。
私も道半ばですし、エラそうなことを言っていますが、日々悩みながら迷いながら暮らしています。嫌なことがあっても、心配なことがあっても、目の前のことに夢中で取り組むのが、悩みを軽減するコツだと、いろいろな本に書いてあります。なので、落ち込んで眠れない夜は、アレコレ考えずに英単語を覚えるようにしています。そうすると、いつの間にか眠ってしまっている自分がいます。
夢中で取り組めることがあることは、この上ない喜びです。そして、自分の憧れているものに向かっていくことが今自分がすべきことだと思っています。
「2025年大阪・関西万博開幕までに同時通訳者になる」
途方も無い目標です。達成できる見込みもわかりません。ですが、絶対に達成したい目標であり、今の自分にはこれしかないと思って取り組んでいます。
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